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吉村信二HOME

萩焼陶工八十三歳の総括

今、萩焼と取り組んだ四十三年間の自分がどうであったのか、振り返ってみたい気分に襲われている。
 陶工である以上作陶にまっしぐら精励することが道であったと言う思いが、後悔を伴いながらひしひしと胸に迫り来る。
 何故か?
出発点での想いの中に、若いおりに東京で経験した素人美術記者の体験が、未整理のまま体内に残っていたことに起因するように思えてならない。
美術界全体を裏側から見て来たのである。一般人から見えない部分は想像を絶する全く汚濁に満ちた世界である。
「自分はそうなりたくない」そんな意識だけが強く働いていたことだけは確かである。

美術家は総じて臆病者であり、世間体に対しては神経質である。そこにつけ込んでくる「不良ペン屋」にとってはいとも容易く美味しい餌場になってくる。
短い期間ではあったがそんなところに身を置き、「悪でない悪?」の片棒担ぎ続けたことは生涯の不覚であり、自身の心にぬぐい去ることの出来ない後悔と汚点を残してしまったように思えてならない。

実際に私が念願であった萩焼に手を染めたのは、四十歳の時だった。萩焼はブ-ム真っ盛りだった。萩地域にも幾つかの既成陶芸団体が存在していた。しかし大きい強力な団体は全国組織の地方支部であり、全国組織の悪習旧弊をそのまま抱え込んでいたように思いました。
 その時まだ、私自身がどのような目標でまた姿勢で萩焼と取り組むか、整理されないままスタートを切ったと言うことが本音であったが、とにかく焼き物が作りたいと言う一心で、お金儲け第一主義でなかったことは明言できます。

 ご存じと思いますが、作陶稼業を始めるにはかなりの設備投資が必要になります。これは作陶姿勢の方向はどうあれ、同じで大きい違いはありません。私の場合、その時、設備は勿論作陶技術に関しても白紙に近いものだった。
 四十歳にもなって少し無鉄砲すぎるという世間の声にも、一理も二理もあったと思えるようになった最近であるが、

                             (続く)

萩焼陶工八十三歳の総括(2

 人間誰しもそうであるように、人生をともにする道を選ばなければならない。その年齢時期がいつであろうと、人によって選択決定に違いが生じることは仕方ないことであると思う。
 これは私の負けん気か意地がそう思わせるのかも知れないが、それが早いから、遅いからと一喜一憂することはないと信じている。
 しかしスタート地点において、四十歳といういい歳をしながら、取り組む姿勢にもう少し確固たる信念というか広い意味での計画が確立されていなかったことは、認めざるを得ないし残念なことと言わざるを得ない。けれどもこの曖昧さが生涯尾を引いたとは思わない。

 開窯して二年くらいだったと思うが、キリスト教の牧師T先生に出会う幸運に恵まれた。一般的な牧師と言われるジャンルの人が、どんなタイプの人たちなのか全く知識がなかったことで、どんな形でお付き合いをしたものか戸惑うばかりだったのです。四十代の私にはそれまでにない新種(失礼)の人であったことは確かです。
 お付き合いが始まってすぐに、非常に博識な人であり、キリスト教に限らず仏教にも造詣が深く、萩焼をやる以上仏教について多くを学ぶことが大切であると勧められました。そしてこともあろうに、京都大徳寺の老師と相国寺の現管長長を紹介してくださったのです。
 正直に告白するならば、小学、中学、高校を飛び越して、いきなり大学に入ったようなものでした。

  平成281228日       つづく

萩焼陶工八十三歳の総括(3)

 

 そうでなくとも、焼き物に対する取り組みが「頭でっかち」であったところに、いきなりの大学入学?で収拾つかなくなってしまったのが当時の状況であり、整理の付かない作陶生活が続く要因となったように思います。

 

 キリスト教の牧師さんでありながら、京都の大徳寺や相国寺の住職さんなど次々に紹介していただき、「お話を聞く中で萩焼のお茶碗作りの大切なところを押さえなさい」とアドバイスしていただいたのです。

 正直頭は混乱状態になりました。自分の作陶の方向性、目標もしっかり把握できませんでした。しかし作陶の主体がお茶碗に向かってスタートしたことは確かです。

 

 何もわからないところから大きな夢の始まりでした。まず手始めは「名品茶碗」を見ることからスタートしたのです。あの頃はお茶碗の名品展や有名作家の新作展など、いつもどこかでやっているような環境でした。しかし実際には見ると言っても限度があり、実見したとなればごく僅かなものでした。

 となれば、私の知識欲?はお茶碗の「本」の蒐集に向かいました。当時は焼き物に関する本は次から次と刊行され、お金が追いつかない状況でした。中でも強い印象で残っているのは、清水の舞台から飛び降りた思いで一冊十万円の五冊セットを買ったことです。この本はとても有効だったと今も思っていますが、後日、この著者にお目にかかって話す機会があり、その本のことに話が及んだとき「あの本は茶碗の好きな人が見るものであって、作る者が見るためのものではない」と言われた。今ではしかりその通りと思いながら、写真からいろんなイメージを引き出すことも出来て、言われるほど無益な本ではないと思っています。

 

 本に寄りかかったところで茶碗作りの一から始めたのですが、さて、選択?の善し悪しはどうだったのか、今でもはっきりした結論には至っておりません。

 

 それよりも、大徳寺大仙院の尾関南岳ご老師から聞いた

「茶碗に何を表現するのか、今は流行のように自分を表現すると言うけれど、自分が空っぽではどうあがいても表現する中身がない」

続けて、茶の心は仏教にあるから、仏教を学び精進すれば、自ずと作品は出来てくる。と言うようなことを言われました。